(以下、コラム記事を転載しています) ****************************************************************************
戦略を語る場では「仮説思考」や「まず仮説から始めよ」という言葉が頻繁に使われる。しかし、仮説を立てることと、仮説を検証しながら学びを蓄積することは似て非なる営みである。連載第7回となる本稿では、「仮説を検証しない」現場の実態と、その背景にある心理、そして検証を端折ることで組織に生じる不具合について考えてみたい。
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これまでの連載記事では、戦略仮説には課題仮説と打ち手仮説があり、仮説は立てただけでは価値にならず、事前・事後の検証を通じて初めて戦略思考として機能することを論じてきた。しかし現実の組織では、「仮説を立てること」には前向きでも、「では検証しよう」となると急に腰が引ける場面が多い。
仮説の検証を避ける人たちには、それなりの理屈がある。「この策には絶対的な自信がある」「とにかくやってみなければ分からない」「実行自体にこそ意味がある」「検証に時間を割くよりスピードが重要だ」といった言葉は、一見もっともらしく聞こえる。
だが、その多くは検証の視点を脇に追いやり、自分の打ち手が問い直されることを避けるための“防御的な言い分”という側面が強い。つまり、検証そのものではなく、自分の判断や立場が評価の対象になることを本能的に避けているのである。
検証なき実行は、学びに転化されにくい。往々にして、同じ打ち手を名称だけ変えて繰り返すだけのループに陥るか、あるいは思いつきの策を次々と繰り出しては失敗と撤退を繰り返すだけの消耗的な試行錯誤サイクルに陥ることが多い。どちらのパターンにも共通しているのは、「何が効いて、何が効かなかったのか」という構造的理解が蓄積されないという点である。
仮説検証をしないことによる不具合は一見すると目立たないが、じわじわと組織を蝕む。
1)思考の解像度が上がらない
課題仮説が曖昧なまま打ち手の議論が進むため、会議では「とりあえずやってみよう」「現場の感覚ではこうだ」といった抽象的な意見が飛び交い、何が論点なのかが曖昧なまま進行する。仮説を明確化し、その構造を検証するプロセスがなければ、意思決定は論理ではなく、その場の空気や発言力の強さで決まりがちになる。
2)時間とリソースの浪費が発生する
事前の仮説検証が適切にされていないことで無駄打ちが発生しやすくなるだけでなく、検証すべき判断指標が定まっていないため打ち手を止めるタイミングも分からない。実行の継続・中断判断は、「せっかくここまでやったのだから」「もう少し様子を見よう」という惰性的な基準に寄っていく。結果として、意味の薄い施策に人員が張り付いたまま、新たな機会に資源を振り向ける余地がなくなる。
3)学びの蓄積が生まれない
打ち手の結果を仮説との対応で整理しないため、経験が知見に昇華されない。担当者の頭の中には何かが残るかもしれないが、それは言語化されず、組織知にはならない。したがって、別の部署で似たような試みが再び立ち上がり、「過去にも似た話はあったような気がするが」の一言で記憶が曖昧に処理されるだけである。まさに、反省なき反復である。
このように仮説検証を避ける組織は、一見すると動いているが、実態は同じ場所を走り続ける“ランニングマシン”のような状態に陥る。前に進んでいる風ではあるが、景色は何も変わらない。戦略プロジェクトが量的には積み上がるが、質的な転換点を迎えることがなく、組織内には「何か変化を起こしているはずなのに手応えがない」という空疎感と疲労感だけが残る。
では、仮説検証が組織文化として根付いたとき、戦略プロジェクトはどう変わるのか。
検証とは、誰かを責めるための装置ではなく、「うまくいかなかった事実を資源に転換するための仕組み」へと位置づけ直される。プロジェクトは、成功・失敗という二元的評価から解放され、「何を学び、次にどう活かせるか」という連続的な進化プロセスとして再設計される。 仮説検証が呼吸の如く当たり前に機能し始めるとき、組織は初めて“学習する戦略単位”へと姿を変えていくのである。