東京オリパラに関する総括はどうした

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(以下、コラム記事を転載しています) ****************************************************************************

昨夏のコロナ過の最中に行われ、大いなる議論を呼んだ東京オリンピック・パラリンピック。その招致時に企図された狙いの大半はコロナ過もあり脆くも崩れ去ったため、費用対効果の面では見るも無残な結果となった。それも含め、ごまかさずにきちんと総括すべきだ。

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北京オリンピックが終了し、メダル獲得数が冬季史上最高だとかで世間は盛り上がっている。しかし忘れてはならない、昨年の夏に行われた東京オリンピック・パラリンピックの総括がまだきちんとされていないことを。

 

国民・都民(法人を含む)の多額の血税が投入されたからには、(両大会の組織委員会、東京都、内閣と文科省の其々の)責任者は、計画に比べ実績がどうだったのかをきちんと検証して、国民・都民に対し明確に報告する義務がある。

 

じゃあ何をどう検証するべきなのか。

 

企業の場合であれば、シンプルに「費用対効果」の軸で計画(予算)に対し実績を対比すればよい。すなわち計画時の費用に対しどう増減したか、効果として設定したKPI=成果指標(およびKGI=最終成果指標。通常は売上や利益およびキャッシュフロー)で見てどうだったのか、をそれぞれ整理した上で、費用対効果を測るKGI(通常はNPV:正味現在価値およびIRR:内部利益率)の計画vs実績で評価すればよい。

 

しかし行政が主導した東京オリパラに関しては少し複雑だ。というのは、効果をどういう軸で測るべきかが予め明示されていないからだ(これは政治家と官僚がいざ失敗というときの逃げ道を作っていたからだ)。

 

しかも新型コロナの世界的なパンデミック下での開催という、計画時には誰もが予想しなかった特殊要因のせいで、様々な追加対策が当然ながら費用を増やした半面、効果の多くが吹っ飛んでしまったことは明らかだからだ。

 

とはいえ、東京オリパラの招致計画の狙いは客観的には6つ程度に集約されたはずだ。

 

 

すなわち、1)国民が日本や海外の一流選手のパフォーマンスを間近に観ることでのスポーツ関心度の向上(とその後のスポーツ人口の増加)、2)オリンピック・パラリンピックという世界的祝祭イベントが身近で開催されて日本選手の活躍に盛り上がって景気が刺激されるイベント効果、3)海外からの選手・関係者・観光客との日本国民の国際交流体験、4)外国人観光客の訪日による直接的経済効果とその後のインバウンド観光への貢献、5)会場施設などを含むインフラ整備によるその後の資産化、6)日本企業の技術を世界にアピールすることでのショーウィンドゥ効果、といったところだろう。

 

しかしこのうち政府が一番期待していたであろう4)の「インバウンド観光への貢献」と6)の「ショーウィンドゥ効果」は、コロナ過で外国人観光客が来なかった上に外国人メディア関係者の行動を制限したために大半が吹き飛んでしまったし、3)の国際交流もほとんど吹き飛んでしまった。

 

1)については日本選手の大活躍が続いたお陰で高く評価する向きもあろうが、そもそも無観客開催になっても国民の大半はTV観戦で大いに盛り上がったのだから、わざわざ地元開催でなくともよかったことになってしまう。2)についても、会場やパブリックビューまたはスポーツバーなどで観戦することでの市民間での盛り上がりは得られず、景気刺激効果が大きく棄損したのは間違いない。

 

とはいえこうした結果、すなわち「効果」が大きく棄損してしまったことに関しては関係者・責任者を責めることはできない。正直なところ、招致段階においてここまで世界的なパンデミックにぶち当たる可能性を予想できた者は皆無だったはずだ。これは大震災の被害同様に関係者にとっては制御不能な「天災」だったと言えよう(私見では中国政府の情報隠しによる「人災」だったとも思うが)。

 

とはいえ、海外からの観光客の訪日が期待できなくなった時点で「プランB」に切り替えるべきだったのに、政府も多くの企業も大した対策をできていなかったのは残念だ。開催が1年延期されたので対策準備期間は結構あったのだ。幾つかのあり得べきシナリオの一つとして「海外からの訪日ゼロ、しかも無観客観戦となった場合、どう対処すべきか」を検討しなかったとしたら、その企業はよほど「思考停止」状態が続いていたと言わざるを得ない。

 

具体的にはインターネットでの海外への訴求に思い切って重点を切り替えていく思い切りが、政府・企業側にもっとあってよかったのではと思える点は幾つもある。例えば、小生も関与した企業が世界にその素晴らしい技術力をアピールする機会を、国内での開催直前のオリンピックへの反発ムードに遠慮してあえて抑制したことは、かえすがえすも残念だ。こうした観点で検証すべき点は他にも多々あるだろう。

 

さて、こうなると唯一まともに残った「期待効果」は、インフラ整備によるその後の資産化、いわゆるレガシー効果くらいである。しかし単に施設をどんどん新設すればよいという「土建屋経済」的発想は今の成熟社会にはなじまない。この機会に整備した施設をいかにその後フル活用できるようにあらかじめ考えていたかが問われる。

 

この点では、元々東京オリパラでは「既存施設をうまく活用することでの資産効率化」といった概念があったので、ある程度は意識されていたはずである。しかし結論的にはかなり厳しい点数を付けざるを得ない。建設費の高騰で会場整備計画は何度も見直されたが、グランドデザインに欠けた、その場しのぎに終始したものが多かった。その象徴が国立競技場だ。

 

今回、東京オリパラに合わせて建て替えが宣言された新国立競技場は当初、国際的に高名なザハ・ハディド氏に発注したが、結局はあまりに高額な建築費に非難が高まった挙句、デザイン変更案などを経て(巨額の違約金を伴う)キャンセルに至ったことは周知のとおりだ。

 

そもそも誰がどういう責任を以て「アンビルトの女王」の通り名を持つ同氏に発注しようとしたのか、この巨額な「カネをどぶに捨てる」行為の責任を誰がどう取ったのか、さっぱり不明だ(これがニッポンのメディアの追求の中途半端さを象徴している)。

 

その後、新たに採用された隈研吾氏の木と竹を活かした建築設計は和のコンセプトに基づく非常に素晴らしいものだった。しかしザハ・ハディド案の高コストへの非難の高まりに恐れをなしたか、再設計プランのRFP(企画要求)は構造的に開閉式屋根を採用せず、実現された新国立競技場は全天候対応施設ではない。おのずとこの施設で開催できるイベントは限定され、全天候対応施設に比べ収益力は雲泥の差だ。

 

この例は、経営感覚が欠如した「官」が主導するインフラ整備によるレガシー効果の欠陥を象徴している。

 

一部、有明アリーナのように民間委託を梃子にまともな収益計画を練っている例も散見されるが、大半の新設施設は「作ればおしまい」という旧来の発想に囚われたままに見える。今後、東京都をはじめとする自治体はそれらの施設の維持管理費に苦しめられるのが目に見えている。

 

一方、東京オリパラ大会に掛かった費用は計画と実績でどれほど違ったのか。立候補ファイルによれば、大会に係る経費(予算)は7,340億円(大会組織委員会3,013億円、非大会組織委員会4,327億円)とされていた。その後何度か予算が追加増額され(この増額の大半はコロナ過とは無縁だ)、2021年12月時点での見通しでは1兆4530億円となると発表されている。

 

ほとんどの会場で無観客での開催となったため、観客に対する新型コロナ対策費や警備・輸送にかかる費用が少なくなったことや、式典等の簡素化や契約見直しなども進めた結果、1年前の見通しに比べれば2000億円ほど下回る見込みになった。しかし当初予算に比べ倍増したことは「当初予算がいい加減の極みだった」と糾弾されてよい。

 

最後に、運用面の総括を考えてみよう。この東京大会の運用に関してはどの面を見るかによって天国と地獄ほど評価の開きが出てくる。

 

まず体制の面では特にリーダー層がずっと安定せず、すったもんだに終始した。2013年9月のIOC総会で東京開催が決定した3か月後の12月、招致の主役の一人である東京都知事・猪瀬直樹氏が徳州会グループからの金銭授受問題で辞任。その後任の舛添要一氏も約2年半後に、政治資金の公私混同問題により辞任。JOCの竹田会長が五輪招致を巡る汚職疑惑を受けて2019年に退任。五輪開催に執念を燃やした安倍晋三氏は1年の延期を宣言した約半年のちに体調悪化を理由に首相を辞任。最後に、大会組織委の森喜朗氏は女性蔑視発言で会長を辞任。よくまぁこれだけ続いたものだ。

 

次には、開催前の準備や人選についても様々な不手際が目立った。一旦決まった大会公式エンブレム(佐野研二郎氏デザイン)が盗作疑惑で白紙撤回されたことは多くの人の記憶に残っているだろう。では東京都観光ボランティアのユニフォームが「ダサい」と酷評され見直されたことはご存じだろうか。

 

2021年に入ると、開閉会式で演出の総合統括役だったクリエーティブディレクターの佐々木宏氏が出演者の容姿を侮辱するような演出案を出したことを巡り辞任。開催直前ともいえる7月には、開会式作曲担当の小山田圭吾氏が過去に雑誌のインタビューで明かしたいじめ加害に対する批判を受けて辞任。どうも安倍政権と同じような「お友達重視」方針による甘い調査・人選が、このひどいドタバタを生み続けた原因に思えてならない。

 

一方、囂々たる批判の中で開催された大会運営そのものに関しては、むしろ世界に誇れるほどよくできたといえる。北京大会で目立ったような不手際に類するものはほとんどなく、前例のない「バブル方式」のお陰で心配された新型コロナ感染の広がりもなく、かたずを飲んで見守っていた世界のメディアやスポーツ関係者からは称賛や感謝の声が止まなかった。

 

この点、東京都と大会組織委員会、JOCなどのスポーツ組織の各現場の方々、そして各ボランティア関係者の工夫と努力には頭が下がるばかりだ。

 

こうやって考えてくると、東京オリパラはコロナ過に見舞われるという不運もあったが、関係者、特に現場の懸命な努力により日本という国の面目だけは保たれたが、壮大な計画の大半が思惑外れに終わってしまったと、客観的には言わざるを得ない。

 

せめて残った資産の有効活用だけは何とか進めていただきたいが、札幌への再度の大会招致には否定的にならざるを得ないのではないか。できれば国民全体、せめて北海道道民による投票で民意を尋ねてみるべきだろう。