わが町を新たに作る、集団移転は住民主体でこそ成功する

ビジネスモデル

9月27日(土)に放送されたNHKスペシャル、シリーズ東日本大震災「私たちの町が生まれた~集団移転・3年半の記録~」は感慨深い内容でした。

震災から3年半経ち、ようやく大規模な集団移転が始まります。人口1000人を超える新しい町が誕生しようとしているのです。宮城県岩沼市。ここも震災で8mの津波に襲われ、沿岸部が壊滅したところです。町ごと集団移転し、海岸から3キロほど内陸に入った20ヘクタールの農地に住宅地を造成し、仮設住宅からの引っ越しが始まっているのです。

実は各地で集団移転事業が検討されながら、住民同士、そして住民と自治体との意見がまとまらず、ほかに実施できているところはありません。そうした中、なぜ岩沼市だけが話が進み、トップを切れたのか?

この3年間の歩みに寄り添った人たち、その渦中でもがいてきた人たちの軌跡を辿ると、幾つかの要因が挙がってくるようです。行政の、コミュニティの維持にこだわった賢明な判断と、住民の意見をまず聞くんだというオープンな方針がまず特記されてよいでしょう。

岩沼では被災後数日で、元の集落単位で集まるように避難所でのグループ換えが行政主導で行われています。誰もが何も考える気力を無くしている時に、こうした賢明な判断ができた当時の市長は素晴らしいリーダーです。お陰でコミュニティの維持と、住民が話し合う土壌が造られたのです。

そして新しい街づくりのために行政の都合を押しつけることなく、街づくりの専門家(東大の教授)を呼んでファシリテーションしてもらいながら、ゼロベースで住民に話し合いを何度も何度もさせたのです。他の自治体が自ら考えた青写真を住民に押しつけようとしたのに対し、岩沼市はあくまで住民からの意見集約を辛抱強く待ったのです。

そのコミュニティと行政の理解をベースに、主体的に新しい町の設計に参加し、理想の町を目指して何十回となく徹底的に話し合ってきた住民たちの努力も忘れてはなりません。素人が思い思いに発する意見、その食い違いに嫌になることもあったでしょうが、世話役の人たち、町を再建したい思いの人たちが諦めずに粘り強く話し合いを続けたのです。

「話し合いによる合意」を徹底させたことで、住民の間にも、住民と行政の間にも、大きな対立が生まれず、住民には『自分たちの町を作る』という意識が高まったのです。例えば、行政が当初想定していた碁盤の目のような区画でなく、公園を囲んで住宅が固まり、その間を曲線の道が縫うような、米国にあるような洒落た町のイメージに住民の意見がスムーズにまとまりました。結局、こうしたボトムアップが廻り道のように見えながら、町の再建には一番近道だったのです。

しかし、新たな問題も生じました。住民たちが理想の町として描いたプランには、以前の町の特色である防風林や芝生に覆われた公園などがありました。しかし岩沼市の予算(および復興予算からの補助も加えても)の縛りから認められないと通告されたのです。集団移転自体に莫大な予算を投入しており、贅沢な街づくりに税金を掛けることには他の市民の理解が得られないと判断したのでしょう。「この地区だけ優遇させることはできない」「どうしてもやりたいなら、自分たちの負担でご自由に」ということです。ある意味当然でもあります。

しかし住民たちは諦めるつもりはありません。寄付などを募って資金を作り、森や芝生の維持管理は自分たちで担おうと考え、行政と交渉することにしたのです。そのための勉強会もやりました。「行政に頼る、ダメなら諦めるという発想はもうやめた。自分たちの町は自分たちで作る」と住民の代表は言っていました。そして公園全部でなく、一部の区画に芝生を自分達で植え、育て、少しずつ広げようとしているのです。

これが本当の住民による町づくりです。小生もある地方の街おこしを、部分的ですが手伝うことになっています。そこは被災地ではないので、住民の危機感や結束力をこれほど期待できないでしょう。また、自分が住んでいる横浜市を考えたとき、地元とこんな濃い関わり方をすることは難しいと感じます。今回の番組を観ていて、何か羨ましいような気がしました。