「あさが来た」のモデルは日本が誇る女性実業家

ビジネスモデル

NHKの「連続テレビ小説」は国民的番組として常に人々の関心事で、視聴率が高くても低くても話題に上る。小生は(「梅ちゃん先生」を例外に)毎回観るという習慣はついぞなかったが、知人(ウチのカミさん含め)には「毎朝観る」という人が思ったより多い。

今の「あさが来た」のモデルは明治の女傑と言われた実業家、広岡浅子。世間の話題はむしろ五代友厚役のディーン・フジオカだったが、やはり主人公である広岡浅子の生涯が魅力だ。その生涯を総ざらえしてくれたのが、2月12日(金)に放送されたThe歴史列伝(BS-TBS)の89回め「明治の女傑 広岡浅子」だった。激動の時代を、不屈の闘志で生き抜いた彼女の波瀾万丈の人生を、三つの鍵で解き明かしてくれた。
http://www.bs-tbs.co.jp/retsuden/bknm/89.html

1.「ぼんくら亭主」
京都の豪商 三井家に嘉永2年に生まれた広岡浅子は、商家のお嬢様でありながら始末に負えない「はねっかえり」。その嫁入り先の加島屋は幕府の公用金の管理や大名貸しで財を築いていたトップレベルの両替商。浅子の夫・信五郎は、仕事を番頭や手代に任せっきりで謡や茶の湯にうつつを抜かす、筋金入りのぼんくら亭主だった。
明治政府の無茶苦茶な金融政策により、他の両替商と同様に加島屋もまた窮地に陥り、20歳の浅子は自らが経営者として前面に立つことを決意する。

2.「九転中起」
借金返済の猶予を懇願することを繰り返していた浅子が目をつけたのは、国策たる筑豊の炭鉱開発。最初は炭鉱から掘り出された石炭を、上海や香港などへ輸出することを目論む。しかし石炭価格の暴落と海外輸出の不振のため、石炭会社は解散に追い込まれる。しかしぼんくら亭主の信五郎と仲間が設立した紡績会社が軌道に乗り、加島屋は何とか持ち直す。そして11年後、石炭価格が活況を呈するようになったのを見て、リベンジとばかり、浅子は開店休業状態だった炭鉱現場で陣頭指揮を取る。反発を乗り越えて荒くれ男どもと寝食を共にした2年後、ついに石炭の鉱脈を発見したのである。

3.「儲けを活かす」
一大コンツェルンとなった加島屋を率いた浅子は自分の財産を、慈善事業家として社会のために注ぎ込んでいく。女子高等教育機関の設立を目指していた教育者、成瀬仁蔵の熱意に共感した浅子は、自らも大金を投じるだけでなく政財界の要人を説得し、実家の三井家に掛け合って広大な土地を寄付させ、東京・目白に日本女子大学校を設立させる。
最後に浅子は宿願たる生命保険業の創業に全精力を注ぐ。日清戦争の遺族である未亡人や孤児たちを救うため、加島屋の資金を注ぎ込むと同時に、当時、大阪、東京、北海道にあった三つの保険会社の合併に向け粘り強い説得を続け、ついに全国規模の保険会社(大同生命)設立にこぎつける。

浅子が語る「これからの女性は自立しなくてはいけない。誰かの妻という存在ではなく、自分が働き、金を生み出し、社会の中で一個人として存在しなければならない」もしくは「成功の秘訣は、その人に情熱があるかどうかです」という言葉は、今の時代でも全く褪せることがない。女傑・広岡浅子、本当に素晴らしい生き方だ。