大震災が子供たちに残した傷跡を考える

社会制度、インフラ、社会ライフブログ

今日であの大震災から11年です。あのとき、皆さんはどこにいて、何をしていたでしょう。直後にどうしましたか。誰とどんな会話をしましたか。そしてその後、被害者たちのために何をしましたか。色々な思いがこみ上げてきます。

 
私は東北出身ではありませんが、実は就職して間もない時期に東北駐在になり、隔週で岩手~青森~秋田の各地を出張しては週末に仙台の自宅に帰る、翌週は仙台・山形間と仙台・福島間をそれぞれ往復する、という生活を5年ほど続けていました。なので、第二の故郷みたいな思いがあります。

 
そんな土地が地震・大津波・原発事故というとんでもない災いの3重苦に見舞われ、その地に住むあの優しい人々が大変悲惨な目に遭ったのです。私ができることは限られており(それでも後で「ああすればよかった、こうすればよかった」と反省しきりです)、1年ほどは関連ニュースに接するたびに涙が止まらない状態になって、自分でもどうしようもありませんでした。

 
でも当事者はもっと切実です。私が最も心を痛めるのは、やはり子供たちです。親御さんやお爺さん・お婆さんもしくは兄弟を津波や地震直後の火災などで失くしたことで、幼いときに心底人生のつらい部分を直視する羽目になったこの子達には、戦争孤児に似たPTSD(Post Traumatic Stress Disorder :心的外傷後ストレス障害)を持つケースが少なくないそうです。本当に痛ましい限りです。
 
もう一つ、まったく違う事情で子供たちが酷い目に遭うケースが最近クローズアップされています。それは福島に集中するのですが、原発事故で故郷から避難せざるを得なくなった大勢の家族で生じています。

 
福島原発の周辺地域から退避した人たちは親戚・友人を頼って(福島以外には仙台や北関東辺りが多いのですが)様々な地域に移住しました。それまであまり馴染みのない地域で生活を再建するご両親のご苦労は想像を超えるものですが、それを受け入れるべき避難地域ではこうした避難家族に対し理不尽なやっかみや非難が横行していたようです。要は「国から見舞金をたんまりとせしめ、働きもせずに日々を過ごしている」などというとんでもない言い掛かりです。

 
親がこうした会話を常日頃、家庭でしていたのでしょうね。それを聞いていた地元の子供たちは学校で、被災地から移住してきた編入同級生に対し容赦のないいじめを繰り返していたようです。こういった場合、子供は遠慮がありません。

 
友人もおらず馴染みのない土地で、実に心細い状態で過ごしていた子供たちにとって、あまりに酷い仕打ちです。しかも自身、新しい土地に馴染めず、就職先を探すのに精一杯だった両親に気を遣って、そうした学校での状況を親に訴えることができない子供たちも少なくなかったようです。こうしたお話は以前にも散発的に耳に入っていました。

 
でも最近、NHKで『“あの人と話したい”~福島・請戸小学校の子どもたち』という番組を観る機会がありました。

https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4642/index.html
 
まさにそういった当事者が登場していました。しかも両親を震災で亡くして親戚に引き取られた子供たちも少なくないことが改めて思い出されました。

 
震災で両親を失くした子供たちが20歳前後になって再会し、震災時と避難後の10年余りについて語り合う姿を見て、痛々しい思いが拭えませんでした。でも若者らしく前向きに生きている姿も同時に感じられました。非常に複雑な思いが渦巻く番組でした。

 
何とか日本社会全体がもっともっと包容力を持てるようになることを祈ってなりません。